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Vol.28
敗者が魅せた笑顔。
自分で考え、楽しむことを貫いた123人が、初の決勝で見た景色

京都成章高校ラグビー部

2021/02/19

いまやラグビー界では名伯楽としてその名を知らぬ者がいない湯浅泰正監督。亀岡高校から琉球大学を経て、開校2年目で当時まだ無名だった京都成章高校ラグビー部監督に就任した。ラガーマンのキャリアとしては決して陽のあたる道を歩いてきたわけではなかった。しかし、監督就任から14年目の2001年に初めて花園への出場を決めると、2008年には初の準決勝進出(3位)という快挙を果たし、以来、花園の常連校としての地位を確たるものとした。2014年から現在まで7年連続で京都代表として全国大会に出場。監督33年目となる今年行われた記念すべき100回大会で、ついに念願の決勝の舞台へ駒を進め、準優勝という結果を手にした。チームを決勝に導いたその原動力はいったいなんだったのか?中心となった4選手とともにその秘訣を聞いた。

貫き通した、選手が主役のチームづくり。

京都成章高校とサン・クロレラとの関係は、不思議な縁によって始まっている。昨年来のコロナ禍によって東京の管理栄養士が京都に来られなくなり、選手たちの体調管理が大きな課題となった。そんなときに2年生の小林典大選手の身体がグングン大きくなるのを不思議に思った湯浅監督が彼に尋ねたところ、実は小林選手の父親がサン・クロレラの社員で、子どものころからサン・クロレラを飲んでいることがわかった。そこで湯浅監督がくわしい話を聞き、まずは監督が飲用を始めた。良い感覚があったため、その後、希望する選手に摂取を勧めたことがきっかけとなっている。

現在のチーム編成は、湯浅監督をはじめバックスコーチである関崎大輔氏が戦術について選手と具体化していく作業を担っているほか、フォワードコーチ、メンタルや生活面でのアドバイスをするスタッフなどを含め、複数のコーチングスタッフが密接なコミュニケーションをとりながら、選手とともにチームづくりをしている。そのため、湯浅監督の担う役割は年々少しずつ小さくなっているのだという。

湯浅監督「ミーティングでぼくが話しすることは、ほとんどありません。最初に大枠のベースになる方針を示したら、そこから選手たちがどうするかは『自分の頭で考えろ』とつねに言ってあります。だからミーティングはあくまで選手が主体。彼ら自身から発せられた問いに対して各コーチがアドバイスで応え、具現化していく。だから、ぼくはもうほとんどトレーニングルームで選手らと雑談して、ふざけあったり冗談言いあったりしてるだけですね」

そうした方針はコロナ禍でのピンチにあって、多大な力を発揮したという。緊急事態宣言に伴う休校措置により、チームが集まって練習できないという状況が春から続いていたが、その間のチーム内でのミーティングや連絡はオンラインで行われた。そこに発見があった。オンラインでのミーティングではひとりひとり順番に話していくかたちになる。そのため、ふだん面と向かっては積極的に話ができない性格の選手の意見も幅広く吸い上げることができたのだ。また、ある学生はテキストメッセージでやりとりしたことで文章構成力があることがわかった。やはり上から下へ、監督コーチの意思を押し付けているだけではわからないことがまだまだある。選手が自分の意見を言いやすい環境づくりは大事だと、このコロナ禍であらためて思い知らされたのだった。

多様性と一体感を両立させたダブル主将という発想。

このようにして選手主体で築き上げられた今年の京都成章高校ラグビー部。なかでもチームを牽引したのが、ふたりのキャプテンだ。今年、京都成章はキャプテンふたりによる「ダブル主将」の体制で臨んだ。スクラムハーフの宮尾昌典選手と、スタンドオフの辻野隼大選手。ダブル主将といってもフォワードとバックスからひとりずつ選ばれたわけではない。湯浅監督いわく「ふたりともハートと責任感が強い。純粋に適正だけで選びました」ということだった。では、ふたりはどんなチームづくりを志していたのだろう。

辻野「とにかくひとりひとりのコミュニケーションを大事にしていました。それはレギュラーメンバーだけでなく、控えの選手や後輩たちも含め、みんなの意思統一を図ってチームをひとつにすること。主将就任以来、そのことをずっと最優先にしていこうと心がけていました」

宮尾「ぼくはチーム全体を引っ張るのは苦手。それは辻野のほうがうまいし、リーダーシップも彼のほうがある。じゃあ自分は何ができるんだろうと考えたときに、チームの雰囲気を明るくすることだと気づきました。ケガをしてチームを少し離れていたときにわかったんです。誰だってひとりですべてのことはできない。だったら、辻野にはできないこと、ぼくにしかできない役割をやろう。それがムードメーカーでした」

その一方で、ロックの本橋拓馬選手と松澤駿平選手のふたりは、我が強く、いちど言いだすと人の意見を聞かない猪突猛進タイプ。とくに松澤選手は関崎コーチともよく衝突し、やりあったという。

松澤「いちばんよく覚えているのは新チームが集まって最初の練習のとき。一対一で抜きあう練習をするよう関崎コーチから指示されたのですが、ぼくは個人の力を磨くよりチーム連携がいまは必要な時期だと思ったので『この練習、要りますか?』とハッキリ言いました」

本橋選手もフォワードコーチの松本氏やチームメイトと激しくやりあうことが多かった。『意見を言うのはいい。でも相手の意見も聞け。それが彼に対するぼくの口癖でした』と湯浅監督は苦笑すると、本橋選手も「ぼくはそれで湯浅監督から『ジャイアン』というあだ名をつけられてしまいました」と笑顔で返す。
それでもふだんから湯浅監督は『コーチや監督が言うことを疑え』と彼らに言ってきた。疑うことから自分で考えることは始まる。だから、少々やりあうのはかまわないのだと、ある程度は放任してきたという。

監督「結局のところ実際に試合で動くのは選手。言われたことしかできないようでは強い相手に勝てないですから。それに結局は自分がやりたいと思ったこと、自分が必要だと感じたことしかやらないでしょう?だから本橋と松澤にはある程度やりたいようにやってみろと。その点、辻野はつねにチームでいちばん冷静で大人でいてくれました。逆にムードメーカーの宮尾はふだん明るくて調子いいけど、揉めごとが起きるとスーッとどっかに姿を消しますから(笑)。でも、それぞれの個性がいいかたちでバランスとれていたので、本当にいいチームだったし、ふたりにキャプテンを任せて正解だったと思っています」

4人のスター候補生と湯浅監督との出会い。

左から:本橋選手、宮尾選手、湯浅監督、辻野選手、松澤選手

すこし、時を戻そう。中学からすでに活躍していた4人のスター候補生達。数ある強豪校のなかで、なぜ彼らは京都成章を選んだのか?その理由について話を聞いてみた。するとその答えからも、それぞれの選手たちの個性やキャラクターと、湯浅監督の熱意と優しさ、行動力が伝わるエピソードが、選手たちの口から次々と飛び出した。

宮尾「ぼくは中学生のときに何度か練習を体験させてもらって、他の高校に比べて雰囲気が良く、練習が楽しかった。チーム全体から、自分たちで練習を楽しんでやっているという雰囲気が感じられました。最後は監督に『オレがお前をジャパンにしてやる』と言われ、そのひと言で決めました。監督、それ覚えてますか?」

監督「もちろん覚えてるよ。なにせ、おまえの家まで行ったからな」

本橋「ぼくはラグビースクールでずっとチームメイトだった宮尾が京都成章に行くと聞いて、高校でも一緒にプレイしたいなと思ったのが大きかった。あと、実はその後で湯浅監督とどこかのパーキングエリアで偶然にお会いしたんですよね。それで『あ、これは運命だな』と思った(笑)」

監督「たまたまお腹痛くなってトイレに行ったんです(笑)。あのときトイレに行ってなかったら本橋と一緒にやってないかもしれないですね」

本橋「運命ですね」

辻野「ぼくは中学2年生の時に花園で見た京都成章の試合がきっかけでした。その試合では観客全員が京都成章の味方についていたんです。あれだけたくさんのお客さんを味方にできるのはすごいなあと思ったのが最初でした。3年生になって進路で迷ったんですけど、湯浅先生が直接会いにきてくださって、熱い想いが伝わったし、いちばん自分を求めてくれているのはこの人だなと感じられたので、京都成章に決めました」

松澤「ぼくも高校をどうしようか悩んでいたタイミングで湯浅監督が話にきてくれて、それで湯浅先生の話術にまんまと引っかかって(笑)」

監督「話術って。人聞きの悪い(笑)。でも引っかかってよかったやろ?」

松澤「はい、もちろんいまは良かったと感謝しています。でもとにかく圧がすごいんですよ。『オレの目を見てくれ!』って言われて…」

監督「なんかそこだけ言うたら、まるでペテン師みたいやないか」

選手たちが湯浅監督との思い出話を語り始めると、それまで緊張気味だった18歳の少年たちとのインタビューの空気が、すこしずつ柔らかく緩んでいく。笑顔がこぼれ、笑い声が室内に響く。それは3年間という長くて短い貴重な瞬間を、ともに戦って過ごしてきた者同士のなかだけにある、信頼とリスペクトと友情の賜物だろう。すこし春めいた2月の陽射しを受けて、監督と選手たちはもうじき訪れる別れを惜しむように、出会いのころの思い出を楽しそうに語り合ってくれた。

「ピラニアタックル」誕生秘話。

今大会の京都成章を象徴する言葉として、テレビなどでもよく耳にした「ピラニアタックル」。ボールを持った相手に群がり、次々とタックルを仕掛け、前で倒してしまうことで敵の前進を許さない。京都成章の攻撃的なスタイルは、いつしかそう呼ばれるようになった。しかし、このディフェンスシステム自体は、決してきのう今日生まれたにわか仕込みのものではない。

監督「かつて東山高校や当時の伏見工業(現・京都工学院高校)などが圧倒的に強くて、うちがなかなか勝てなかった時代が長く続きました。今でこそ、すごい選手がウチに来てくれるようになりましたが、当時は中学までレギュラーになれなかった子や身体の小さい子が中心でした。なんとかその子たちに勝たせてやりたいと考えたときに、京都にはオフェンスでずば抜けてセンスのいい選手がたくさんいますから簡単には追いつけないけど、ディフェンスがものすごく強い学校というのは当時あまりなかった。それで、ディフェンスで互角に渡り合えば、チャンスがあるのではないか?というのがスタートだったんです」

伝統の強固なタックルを起点にした京都成章のラグビーは、今年のチームにも受け継がれていた。そのうえで「ピラニアタックル」とまで言われる今年のスタイルを確立するひとつの出来事があった。それは京都府予選決勝で京都工学院高校を降し、全国大会出場を決めたすぐ後のことだった。

監督「何年か前の先輩が東福岡高校と試合したときのビデオを彼らに見せたんですよ。そうしたら選手全員が目を輝かせて食い入るように見ていた。それで『お前ら、これやりたいか?』って尋ねると『やりたいです!』とみんなが言う。『あ、これはハマったな』と思いました。そこから1ヶ月くらい一所懸命そのプレイを参考にしながら、あらためてタックルの練習に取り組みました。そのおかげで予選から全国大会までのあいだにディフェンスのレベルがまた一段、グーンと上がってきた。やっぱり本人らがやると言って取り組んだ練習は、結果を出すのが早いんです」

新たに取り組んだタックルプレイはちょっとしたシステム変更にもつながり、チーム全体の底上げにもなったが、当初はシステム変更による戸惑いから、チーム内で小さな諍いも起きた。しかし湯浅監督はそれも意に介さず、最後まで彼ら自身の判断に委ねたという。

監督「初めはやっぱり勇気がいるんですよ。失敗するかもしれないし、大事な本大会前にこれで大丈夫かと不安にもなるでしょう。それがあって、あたりまえ。でも、そんなことを経験しながら、最後はみんなが思い描いていたレベルにまでたどり着いてくれました。ぼくはただ遠目に『ええこっちゃ、ええこっちゃ』と見てただけです」

こうして京都成章に受け継がれてきた伝統のディフェンスは「ピラニアタックル」として、新しい命を吹き込まれた。そして京都成章123人の思いと、その“新兵器”をひっさげて、彼らは花園に乗り込むのだった。

宿敵・東福岡を倒し、ついに初めての決勝の舞台へ。

迎えた花園ラグビー場での全国大会。チームは初戦の米子工業戦を129-0、続く早稲田実業戦でも33-0と完封し、順当に勝ち進む。3回戦の尾道高校戦では初めて失点を喫したものの28-7で破り、準々決勝の中部大春日丘もノートライの17-3で降して、いよいよ東福岡との準決勝を迎える。
東福岡高校とはこれまで花園では2度対戦し、いずれも敗れている。準決勝の壁にもこれまで3度チャレンジして阻まれ続けてきた。宿敵・東福岡を倒して初の決勝へ。ジャージを着た選手たちはもちろん、ジャージを着ることができなかった他の3年生、後輩たち、そしてもちろん湯浅監督も、全員の思いはひとつだった。

試合では、磨いてきたピラニアタックルが要所要所で炸裂。東福岡の鋭いアタックに京都成章の選手たちが群がると、ことごとく前で潰し、ターンオーバーからチーム全員の素早い反応で一気にトライへ持ち込む展開で、決勝トライへ結びつけた。今年のチームを象徴するシーンだった。最後は東福岡の追い上げを振り切り、24-21で勝利。ついに念願の決勝へと駒を進めた。

歴史的な快挙を成し遂げ、ようやく掴んだ決勝を前にしても、湯浅監督も選手たちも平常心を貫いた。監督は「彼らなら問題なくやってくれるだろう」という選手への信頼があり、選手たちは「やるべきことをやれば勝てる」というチームに対する自信があったからだ。決勝前夜のミーティングは2時間半に及んだが、それもあくまで普段どおりのこと。「あとは、自分たちのプレイをするだけ」。そう語ると、みんなリラックスしつつ静かな闘志を燃やしていた。

敗戦後、グラウンドにあったのはやはり笑顔だった。

京都成章が初めて迎える決勝の舞台。その相手は、昨年の優勝チームで今年も優勝候補筆頭の桐蔭学園だ。前半は一進一退の好勝負。互角の試合展開で試合は進み、前半を10-10の同点で終えた。ロースコアの試合に持ち込めば、ディフェンスに勝る京都成章にチャンスがあるかもしれない。誰もがそう思っていた。

しかし後半に入ると桐蔭学園はピラニアタックルを逆手に取るかのように、ひとりの選手に複数のタックラーが食いついたと見るや、ギャップを突いて二人目が抜け出し、トライを重ね、じわじわと点差が開いていく。それでも、桐蔭学園と実際に戦った選手たち自身はフィジカルの差は感じなかったと語る。ただ身体の使いかた、チームの意思統一の点で相手が上回っていたと4人が口を揃えた。本橋選手は「ラグビー偏差値の差」という言葉を使った。

それでも、10-32とリードされて迎えた後半ロスタイム、京都成章のエースでもある本橋選手が試合時間残りわずかのところで、最後に意地のトライを決める。

本橋「あのときは、ぼくがいちばん外にいて、ボールが回ってきそうな雰囲気を感じていました。『オレがなんとかしてやるから、とにかくボールを回してくれ』と、そう思って待っていました」

その思いが通じたかのように、スーッとボールが本橋選手に渡る。足に絡んだ相手ディフェンスを引きずりながら右腕を伸ばし、叩き込むように強烈なトライを返した。しかしゲームはそのまま終了。15-32で敗れた。準優勝。しかし選手たちにも監督にも涙はなかった。やりきったという清々しさが、彼らを笑顔にしていた。

宮尾「もちろん優勝して終わりたかったという思いはありました。でも高校生活最後の60分間で、自分たちがやってきたことをぜんぶ出すこと。そのうえでみんなで楽しくラグビーをすること。それが目標だったので、結果は負けてしまったけど、それほど悔しいとは思わなかった。それよりも、やりきった達成感が大きかったです」

本橋「ぼくも同じで、試合が終わったばかりのときは達成感でいっぱいでした。でも整列して挨拶したあたりから急に悔しさがこみ上げてきて、みんなが泣いてないなかで、ひとり号泣しちゃったんです。これまで味わったことのないくらいの悔しさでした。でもやりきった満足感はありましたし、悔いはありませんでした」

松澤「ぼくはみんなと違い、後悔が残っています。というのも、これまで3年間でいちどもケガしたことがなかったのに、準々決勝で足をケガしてしまい、準決勝の東福岡戦に出られなかった。決勝の桐蔭学園戦では出場できたものの、やっぱり自分のベストプレーはできなかったし、途中交代になって最後までグラウンドに立てなかった。だから最後の決勝戦は個人的には悔いが残る試合でした」

辻野「ぼくは終わった瞬間、負けた悔しさよりも、これで終わってしまったんだという寂しさが大きかった。もうみんなと一緒にラグビーできないんだなあという寂しさ。本当にこのチームが好きだったし、キャプテンとして自分を支えてくれたみんなにも感謝しています」

それぞれが、それぞれの心情を吐露する。しかし、悔いが残ったという松澤選手でさえ、その語り口からは爽やかな満足感を感じさせた。それは湯浅監督も同様だった。いやむしろ湯浅監督その人こそが、誰よりも達成感を感じていたのかもしれない。

監督「まあ最後は負けましたけど、ぼくはとにかくうれしかった。だから試合後も一切泣いてないんです。子どもたちは、持ってるチカラをすべて出し切ってくれました。それでもうじゅうぶんでしょう。「花園での決勝」という選ばれた者だけが立てる舞台の景色を見せてくれた。しかも、ほかでもない彼らと一緒に見ることができた。本当にいい時間やったなあと思いますね。とにかくお疲れさん。ようやったなと。それだけでした」

3年間にわたった彼らと湯浅監督の旅は、こうして幕を閉じた。4人はすでに大学への進学が決まっている。宮尾選手は早稲田大学へ。辻野選手は京都産業大学。本橋選手と松澤選手はいずれも帝京大学へと進む。近い将来、彼らが大学選手権で別々のチームで戦っている姿を見ることになるだろう。そしてさらにその先に、4人が日本代表としてふたたびチームメイトとなり、桜のジャージを身に纏って、ともに戦う日が来るかもしれない。おそらくそのときも、彼らの顔にはいつもあの笑顔があるだろう。自分で考え、最後までラグビーを楽しむという、京都成章のイズム。それは、どの舞台であっても変わらず彼らを支え、鼓舞し続けるはずだから。