奥川雅也
サッカープレーヤー/ビーレフェルト
サッカ―強国ドイツの1部リーグ『ブンデスリーガ』では、多くの日本人選手がプレーしている。奥川雅也もそのひとりだ。25歳のアタッカーには、日本代表の森保一監督も注目している。
Jリーグの京都サンガF.C.の下部組織で育った彼は、高校卒業を待たずにトップチームに選手登録され、プロ契約を結んだ半年後にはオーストリアの強豪レッドブル・ザルツブルクのオファーを受けた。
ザルツブルクに所属しながらオーストリアやドイツのクラブで武者修行を重ね、20年にザルツブルクへ復帰して欧州最高峰の舞台『UEFAチャンピオンズリーグ』でプレーした。21年1月からはドイツのアルミニア・ビーレフェルトで躍動する25歳に、少年時代から欧州挑戦までを振り返ってもらった。
中学2年で夢が目標に変わった
記憶にある自分は、幼少期からボールを蹴っていた。
「5、6歳から蹴り始めました。きっかけは3歳年上の兄が小学校のサッカー部に入っていて、その試合を観に行ったりしていたことでした。自分の周りでもサッカーが流行っていたので、自然と始めたようなところがありました」
1996年4月生まれの奥川が5、6歳の頃と言えば、2002年の日韓ワールドカップの前後である。日本国内がサッカーで盛り上がっており、「色々なスポーツをするのが好きだった」という少年は、サッカーに本格的にのめりこんでいく。
「Jリーグの京都サンガF.C.の試合を、何回も観に行っていましたね。僕にとっては一番近くにあるチームで、一番身近なチームでしたので」
地元の滋賀県甲賀市のサッカー少年団でプレーしていた奥川は、チームで一番点を取るほどの才能を発揮していた。中学からは京都サンガF.C.のU-15(15歳以下)チームの一員となる。同世代の優れたタレントと切磋琢磨する日々を通じて、奥川の胸で向上心が膨らんでいった。
「小さいころからプロになるのが夢だったんですけど、ホントに目標に変わったのは中学2年生ですね。僕が所属していた京都サンガF.C.のジュニアユースが強くて、全国大会で何度も優勝していました。ある全国大会で優勝してチームがイギリスに招待されて、海外の選手と初めて試合をしたときに、『海外と日本は全然違うんだなあ』と感じたんです。海外の選手に負けたくないという思いが芽生えて、自然とプロになるのが目標になったというか、ならないといけないな、という感じになっていったのが中学2年生でした」
「このチャンスを逃したら次はない」とザルツブルクへ
Jリーガーになりたいではなく、「海外の選手に負けたくない」という思いは、持続力のあるモチベーションとなっていた。具体的な目標があるから、練習に精いっぱい打ち込むことができた。
京都サンガF.C.のジュニアユースからユースチームへ昇格すると、高校生年代の日本代表に選出されるようになった。3年時にはU-18チームでプレーしながら、トップチームに選手登録された。
目標が、輪郭を帯びてきた。
ヨーロッパの複数クラブから獲得オファーが届くのだ。高校卒業から半年後の2015年6月、奥川はオーストリアの強豪レッドブル・ザルツブルクと契約を結んだ。
「あのタイミングで移籍することについては、正直に言って迷いました。海外へ行きたい思いはもちろんあったんですけど、まさかこんなに早く行けるとはという驚きがありましたし、お世話になった京都サンガF.C.で活躍してから行きたい、という思いもありました。いろいろな方の意見を聞きました。日本で活躍してから行ったほうがいいという声は多かったんですけれど、『このチャンスを逃したら次はないな』という気持ちで移籍を決断しました」
複数の選択肢からザルツブルクを選んだのは、先方の熱意に共感したからだ。クラブの関係者が、はるか極東まで足を運んでくれたのだった。
「熱心に日本まで来て誘ってくれました。その当時の僕は足を骨折していて、海外でプレーするイメージがすぐにわかなかったんですが、それも含めて考えてくれて。当時のザルツブルクは若い選手が多くて面白いサッカーをしていて、そういうところも細かく教えてもらって、自分も行きたいなと思ったんです」
雌伏の時を経てザルツブルクで結果を残す
ザルツブルクと契約を結ぶと、すぐにオーストリア国内の他チームへ期限付きで加入することになった。「レンタル」と呼ばれるものだ。翌シーズンも違うチームのユニフォームに身を包み、その次のシーズンはドイツ2部のチームの一員となる。自分を評価してくれたはずのザルツブルクで、なかなかプレーできなかった。
「レンタルしていたチームで試合に出られないときもあったので、『このままじゃザルツブルクに戻れないな』という恐怖心というか焦りというか、そういうものを感じたこともありました。精神的にちょっとしんどい時期もありましたね」
ピッチで自らの力を証明したい。それなのに、出場機会を得られない。ネガティブな思いにとらわれてもおかしくないなかで、奥川は自らを奮い立たせていった。
「レンタル先でもザルツブルクの試合をチェックしていて、自分と一緒にいた選手が試合に出ているのを見て、『もっと自分もやらな』と思っていました。試合に出られないときも、練習では自分が一番だと思ってやっていたので、とにかく気持ちを継続させることへ意識を持っていきました。『練習で一番なのになんで出られへんねん』という反発じゃないですけど、悔しい思いを持ちながらいい練習を続けていれば、いつかは出られると信じてやっていました」
レンタル先では、監督と積極的にコミュニケーションをとった。立命館宇治高校在籍時にドイツ語に触れていた奥川は、オーストリアにわたってから家庭教師にドイツ語を学んだ。それでも、細かいニュアンスとなると、自分が喋りたいことを100パーセント伝えるのは難しい。そんな時は、サッカーコートを縮小したボードで説明を受けた。分からないことは決してそのままにせず、理解できるまでコミュニケーションをとった。
「どのチームの監督とも、どういう戦術でプレーしているのか、どういうプレーが求められるのかは、きちんと聞くようにしていました。あとは、チームメイトに認められることですね。新たにチームに合流して最初の練習でいいプレーができれば、選手は絶対に認めてくれますし、パスも出してくれるようになる。選手から認められれば、監督も僕を使いやすいので」
ピッチの内外で様々な努力を積み重ねていった奥川は、移籍後5年目となった2019年7月開幕のシーズンを、ザルツブルクの一員として迎えることになる。欧州最高峰の舞台と言われるUEFAチャンピオンズリーグのピッチにも立った。リーグ戦では23試合に出場して9ゴールを記録し、ザルツブルクのリーグ7連覇、国内カップ7連覇に貢献したのだった。
「チャンピオンズリーグとかヨーロッパリーグのような欧州を舞台とする大会に出るのは、こちらでプレーしたいと思う一番の理由でした。ザルツブルクへ復帰してそれが達成できたのは良かったですが、チームがリーグ戦もカップ戦もずっと勝っていたので、自分が復帰して優勝を逃したらマズいぞ、という不安もありました。なかなか難しいシーズンでもありましたね」
当時のザルツブルクには、南野拓実が所属していた。奥川に先駆けてプレーしていた2学年年上の同胞は、兄のような存在だった。
「練習で色々とアドバイスをくれますし、試合で活躍しているのも間近で見ていました。その選手が声をかけてくれるのは、すごく大きな刺激というか、『もっと頑張らな』という気持ちにいつもさせてくれていたし、プライベートでもご飯に行ったりしていました。すごく助かりましたね」
オーストリア屈指の強豪ザルツブルクで、ひとまず結果を残すことができた。ステップアップのタイミングが、迫っていた。