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Vol.29
壁にぶち当たるたびに強くなっていった
何となく生きていた佐藤将光を本気にさせたもの

佐藤将光
総合格闘家

壁にぶち当たるたびに強くなっていった 前編
2021/03/05

現在アジア№1の格闘技プロモーション『ONE Championship』で活躍中の佐藤将光。しかし、ONEに行き着くまでの道程は決して平坦ではなかった。サッカー少年だった佐藤はなぜ総合格闘技に情熱を注ぐようになったのか。

ボクシングでもキックでも何でもよかった

 高校まではサッカー少年だった。
とりわけ小学校のときに在籍していたクラブチームは強く、都大会で優勝して全国大会に出場するくらいハイレベルだったという。佐藤は「僕の代はそんな上には行けなかった」と前置きしながら、フットサルでは全国大会に出場したことを明かす。
「僕はそんなにうまくなかったので、ギリギリスタメンに入るかどうかという感じだった。ただ、よく走る方だったので、フットサルのときには使いやすかったんだと思う」
格闘技をやるきっかけは高3の夏に部活動を引退したことだった。
「僕は都内の高校に通っていたんですけど、夏頃には推薦で明治大学への進学が決まっていた。でも、まわりは受験モードだったので、遊び相手もいなくて」
大学で部活をやるとなると、スポーツ推薦で入ってくる者たちと切磋琢磨しなければならない。内心、試合に出られない可能性もあるのに部活動を続けるのは辛いと感じていた。だからといってスポーツ系のサークルに入り遊び半分で汗を流すことにも抵抗があったと話す。
「なんか無駄に尖っていたんでしょうね(苦笑)。そこには罪悪感があった。真面目にスポーツをやりたいと思った」

 以前から佐藤はテレビでの格闘技観戦が好きで、山本KID徳郁に淡い憧れを抱いていた。当時、住んでいた目黒区周囲の格闘技ジムをリサーチすると、KIDが運営するKILLER BEE (現KRAZY BEE)があったので一般会員として入会した。
「別にボクシングでもキックボクシングでも格闘技だったら何でも良かった」
だからといって、特別熱心だったというわけでもなかった。ジムに通う頻度は週1程度。佐藤は学校の授業用に持っていた柔道着を来て、柔術のレッスンに出たりした。
「ジムには1年もいなかったですね。辞めた理由?大学は神奈川県の生田にあったので、実家を出て学校の近くで一人暮らしをするようになったからです」

誰かが作った道を歩いていた

 明大を選んだ理由は「とりあえず、いい大学に行っておこう」というもので、確固たる志望動機があるわけではなかった。
「流れに任せて、誰かが作った道を歩いていけばいいみたいな感じでしたね。あの頃の僕はなんとなく生きていました」
そんな折、格闘技に再び巡り合う機会に恵まれる。たまたま見ていたテレビの情報番組で坂口道場の存在を知ったのだ。当時住んでいた向ヶ丘遊園から坂口道場があった喜多見までは、3駅しか離れていない。近いと思った佐藤は迷わずに同道場に入会。原付に跨がりながら通い始め、総合格闘技(MMA)やブラジリアン柔術のレッスンに参加した。
それから数カ月、ちょうど大学1年の夏の終わり頃だったと記憶している。
「今度柔術の試合に出るけど、佐藤君も一緒に出ない?」と他の会員から誘われるがままに出場した柔術大会では、一回戦であっという間に一本負け。悔しさが込み上げてきた。
「それまでは何となくやっていたけど、そこからちゃんとやるようになりました」
クールに見える佐藤だが、目に見えぬ負けん気は人一倍。大学1年の冬には、パンクラスのアマチュア大会に出場するようになった。プロの第一登竜門というべきパンクラスゲートに昇格するまではとんとん拍子だったが、佐藤はそこから伸び悩んだ。
「対戦相手に倒されたあとの作りがダメだった。僕のベースは柔術だったので、下から腕ひしぎ十字固めを狙うパターンが多かったけど、そのまま潰されて上をとられているうちに負けてしまうケースが多かった」

「俺もプロになれるのかな?」

 結局、それから1年は思うような結果を出せなかった。何がきっかけで目の前の壁を打破できたかはわからないが、佐藤は「練習の積み重ねだったかもしれない」と思い返す。
坂口道場で当時ヘッドコーチをしていた柳澤龍志に習っていたことも大きかった。柳澤はパンクラス旗揚げメンバーのひとりで、現役時代は長身を利した打撃を得意としていた。
「あの頃の坂口道場のメンバーはみんなそうだと思うけど、柳澤さんから基礎を学んだと思います。パンクラス式の総合とチームドラゴン式のキックのやり方が軸でした」
柳澤が現役時代、立嶋篤史とともに一時代を築き上げた前田憲作(現チームドラゴン代表)と親交があった関係で、前田から打撃の指導のノウハウを吸収していた。同じ道場には、のちに佐藤より一足早く日本チャンピオンとなり、全米ではUFCに次ぐ規模を誇る格闘技プロモーション『ベラトール』でも活躍したISAOがいた。1年後輩だった。「年齢も僕の方がひとつ上。あの時代はEriya(2006年ネオブラットトーナメント・ライト級優勝)さんという強い先輩がいて、ISAOと僕は毎回ボコられていました。いまやってもどうなんだろうというくらいEriyaさんは強かった」
プロを目指すようになったのは、坂口道場に入門して2年目になってからのことだ。アマチュアの新人選手向けのトーナメントで準優勝を収め、プロへの登竜門『パンクラスゲート』へと昇格したことがきっかけだった。「あっ、俺もプロになれるのかな?」という手応えを感じた。「佐藤だったら大丈夫」という周囲の後押しもあり、「もうちょっと本気でやってみよう」と思うようになったのだ。それだけではない。キャンパス生活に充実感を感じていなかったというのも理由のひとつだ。もともと佐藤は数学や物理が得意な理工系の学生だったので、大学では建築学科に進んだ。入学当初は建築士を目指したが、挫折するのに時間はかからなかった。最初に図面を書く授業に出た時点で、「これは本当に好きでないとできない」と悟ったのだ。
「平面図や断面図を書いたり、めっちゃ大変なんですよ。時間がいくらあっても足りない。好きでないと無理な世界だったので、僕には苦痛で仕方なかった」
プロになるという目標を定めた佐藤は、ますます格闘技にのめり込んでいく。
「努力してきたことが結果として出るのは面白かった」
努力の甲斐あって、大学3年のとき佐藤はプロになった。ファイトマネーは安かったが、デビューから3連勝していたせいもあってさほど気にならなかった。「ランキングに名を連ねたら多少食えるようになるのかな?」程度にしか考えていなかった。
「先輩たちがいくらもらっているかも知らなかった。なんとなく暮らせるんだろうと思っていました。だから就職活動もしなかった。なんか格闘技のプロでやっていく方がカッコいいと思ったんですよね」
結局、ランカーになってもファイトマネーはさほど上がらなかったが、佐藤は格闘技をやることで何にも代えがたい充実感を得ていた。「練習も試合も単純に楽しかった。今までできないことができるようになったり、一本とれなかった人からとれるようになったり。そういうことが楽しくて仕方なかった」
大学の方は単位ギリギリながらストレートで卒業した。こうして佐藤は、本格的にプロ格闘家として道を歩んでいくことになったのだ。