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Vol.56
完膚なきまで。
畏怖すら覚える絶対王者の「1セットも与えずに勝つバレー」はどのようにして生まれたか。

東山高校バレーボール部

完膚なきまで。 後編
2022/10/05

今年春、東山高校バレー部は新体制へと移行した。長年にわたって監督を務めてきた豊田充浩氏を総監督とし、豊田氏の教え子で元日本代表オポジットでもあった松永理生氏を新監督に迎えたのだ。チームを牽引するのは二人の日本代表。ひとりは高校生唯一全日本代表に選出された身長206cmの麻野竪斗選手と、U18日本代表に選ばれ世界大会でMVPに輝いた尾藤大輝選手である。後編では伝統の東山バレーに新風を吹き込んだ松永理生新監督の指導スタイルを、将来のバレー界を背負って立つことになるであろうふたりのニュースターには、いまの東山バレー部の強さの秘密について話を伺った。

運命によって導かれた、母校・東山高校への帰還。

松永理生氏は、東山高校を卒業後、中央大学に進み、ユニバーシアード大会準優勝などの活躍を見せると、パナソニック・パンサーズに入団。その後は全日本代表にも選出されるなど、華々しい経歴を誇るスタープレーヤーだった。現役引退後は最後に所属していた豊田合成トレフェルサ(現・ウルフドッグス名古屋)でコーチを務めたのち、母校である中央大学の監督に就任。石川祐希、関田誠大ら数多くのスター選手たちを育成し、全日本インカレ3連覇を達成するなど、指導者としても輝かしい実績を残してきた。

その松永理生氏が母校・東山高校のコーチに就任したのは、いまから3年前。当時監督だった豊田充浩氏のオファーを受けてのことだった。当時、チームには髙橋藍という特別な選手がいた。のちに東京2020大会にも出場し、現在イタリアのプロリーグで活躍中の彼にして「自分の成長は理生さんのおかげ」と言わしめた。

松永監督「ぼくがなにか特別なことをしているわけではありません。ぼくの指導によって彼らの才能を伸ばしたのではなく、むしろ彼らの才能がぼくを正しい指導方針へと導いてくれたのだと感じています。才能ある選手たちの求める動きやスタイルに、ぼくが引き寄せられていった結果、こうしてあげればいいんだと気づかせてくれる。そこのマッチングが、たまたまうまくハマったんだと思います」

そして今年春、コーチから監督へと昇格し、チームを率いることになった松永理生氏。監督になったいまもそうした方針に変わりはない。また、チームを引き継ぐうえで、とくに難しさは感じなかったと松永監督は話す。3年間コーチとして豊田総監督とコミュニケーションはとってきたし、そもそも豊田総監督は高校時代の恩師で、松永監督自身が東山バレー部のOBだ。東山バレーの真髄は、身に染みて誰よりもわかっていた。

強さの秘訣は、指導者と選手とが互いにリスペクトし合える環境。

監督に就任して最初の全国大会であるインターハイで松永理生氏は、早速、大きな成果を果たす。すべての試合で相手チームに1セットも与えない「完全優勝」を成し遂げたのだ。この偉業には、豊田総監督が長年培ってきた伝統にプラスして、松永新監督が持ち込んだ若き指導者ならではの視点や、新しい戦術が融合したことも大きかった。そのひとつが練習における「短時間集中」だった。

松永監督「まず練習時間は2時間、長くても3時間までとしています。なぜならバレーボールのゲームでは、たとえばワンラリーが最短5秒ほどで決まります。一瞬で局面が変わり、その都度、瞬間的な判断を迫られます。ですから、ふだんの練習からメニューをテキパキこなし「考えながら動く」ことを促しています。もちろん課題が見つかれば監督である私からの指導が入ります。そこでは意図を理解してもらうためにじっくりコミュニケーションする時間をとります。とはいえ選手には瞬時に理解し、次のプレーで体現できたらなるべく早く次のメニューへ移っていくことが求められます。やはり練習からやってないと試合でできるはずがありませんからね」

また、松永監督は相手が高校生だからと決して侮ることなく、自身が大学や全日本代表で学んだ技術、中央大学などで指導してきた経験を活かして、トップクラスのスキルや練習メニューを惜しみなく高校生に注ぎ込んでいる。また指導する際に選手を「あなた」「さん付け」で呼んでいるのが印象的だった。そこにも松永監督の「選手と指導者は対等であるべき」という指導哲学が反映されているのだろう。

将来のバレーボール界を背負う、ふたりの若き日本代表の現在地。

インターハイでの完全優勝を成し遂げた東山高校バレー部を牽引する中心選手として、全国的にも有名なふたりのスター選手がいる。麻野堅斗選手と、尾藤大輝選手だ。麻野選手は身長207cmを誇るミドルブロッカーで、唯一高校生で日本代表に選出された。尾藤選手のポジションはOH(アウトサイドヒッター)で、U18日本代表として出場したアジアU18選手権でMVPにも選ばれている。そんなふたりに、東山高校を選んだ理由を訊ねてみた。

麻野選手「やっぱり理生さんがいるということが大きかった。雑誌などの記事で実績や指導方法を読んで、この人に学んでみたいという思いをずっと持っていました。バレーボール選手として、自分が成長するためには、絶対に東山に行く必要がある。そう思ったからでした」

尾藤選手「ぼくは髙橋藍さんのときの優勝した春高バレーの試合を見て、自分がめざすべきバレーが東山高校にあると感じたからです。それは守備が土台にあっての攻撃、そのうえで多彩なコンビネーションを絡めたスタイルが、自分はやってみたいと思ったことですね」

東山高校入学後に、実際に松永監督から指導を受けてみた印象として「教えかたが丁寧でわかりやすい」「自分の将来のために指導してくれているという実感があるから素直に聞き入れやすい」と話しくれたふたり。それぞれ日本代表にも選出され、世界という大きな舞台へと活躍のフィールドを広げている。そしてそこで得た経験や気づきを、チームへフィードバックすることで、東山バレーはまた一段と強くなっていることだろう。

麻野選手「フル代表に参加して真っ先に感じたのは、大学、プロとカテゴリが上がるにつれて、ストレッチやトレーニングに対する意識の高さ。練習準備や身体づくりなど基礎的なところからして差を感じました。いまは自分もふだんのストレッチのメニューを取り入れ、ストレッチの時間を長く取るようにはしています。やはり良いパフォーマンスを続けるためにはケガをしないというのがいちばん大事なことなので、それを意識して取り組むようになりました」

尾藤選手「まず、ぼくを含めてU18世代では日の丸を背負って戦った経験のある選手が少なかったので、その重みを感じました。大会でMVPを獲得したことはもちろんすごくうれしかったのですが、それよりアジアの舞台でイランやインドなど高さもパワーもある選手たちに負けることなくプレーできたことがうれしかったです。それはやっぱり東山に入学して理生さんに教わった技術がしっかり発揮できた結果。だからこそ、その恩返しという意味でも、アジアの舞台で戦ってきた経験を、ふだんの試合でも活かせるようにしていきたいと思っています」

コロナ禍がきっかけとなったサン・クロレラとの出会い。

じつは東山高校バレー部でも、サン・クロレラAを導入している。きっかけはすでに導入されていた同校バスケットボール部の大澤徹也監督から評判を聞いた豊田総監督から「バレー部でも導入したい」とのオファーがあったことだ。奇しくもコロナウィルスによるパンデミックにより、感染対策への徹底が求められており、とりわけ東山高校バレー部は前編でも紹介したとおり、苦い経験もあった。豊田総監督にしてみれば、通常の対策だけでなくふだんから選手の体調やコンディションを整えるためにも、とにかくなにか新たに取り入れる必要があると考えたのだった。現在では練習が終わるとすぐ、豊田総監督のもとへ選手がサン・クロレラAを求めて集まるのだという。

尾藤選手「豊田先生が練習後に渡してくださるので、ふだんはそれを飲んでいます。もちろんU18の大会にも持っていきました。水に混ぜて飲んだり、料理に入れたりもしました。自分はお腹を下しやすい体質なので調子を整えるために、とくに大会期間中は飲むようにしています」

麻野選手「たしかにぼくも毎朝お腹の調子が良くないことが多くて困っていたんですけど、飲み始めてから調子が良くなった気がします」

松永監督「ぼくは食事を摂ったあとに飲むことが多いんですけど、錠剤だとけっこうな数になるので3回に分けて飲んでいますね。年齢的なものもあるかもしれませんけど、次の日の調子が良くなるので、いまも継続して飲ませてもらっています」

さて、チームはいよいよ三冠ロードに向けての次なる関門、二冠目となる国体がまもなく始まる。しかし、彼らに油断や隙はまったく見られない。豊田総監督が培ってきた伝統、松永監督が持ち込んだ最新のストラテジー、そして日本代表での経験をチームにフィードバックする若きエースたちの才能。これらが融合した東山高校バレー部は、間違いなくいまの高校バレー界において王者の名にふさわしい存在だといえるだろう。それらを結びつけているのが、ここでもやはりチームスローガンの「信頼・団結・闘志」である。

一昨年の先輩たちの悔しさを見ている選手たちは最後にこう締めくくった。「もちろん三冠は目標ではあるけれど、次の国体を『二冠目』だとは思っていない。ぼくたちはいまでもまったくの挑戦者である」と。