原田快
フットサルプレーヤー/FCバルセロナ
FCバルセロナに所属する日本人フットボーラーがいる。この驚くべき事実を、はたしてどれだけの人が知っているだろうか。この偉業を成し遂げた選手の名は原田快(こころ)。昨年のシーズンからFCバルセロナのフットサルチームで活躍する19歳のプロフットサルプレーヤーだ。5年前に14歳で出場したスペインでの大会で得点王とMVPに選ばれ、その活躍がスペイン中に轟いたことから注目されFCバルセロナへ。昨シーズンは開幕からレギュラーとして出場すると、リーグ戦で5得点15アシストの活躍を見せた。
4歳でフットサルを始めた少年が、指導者でコーチでもある父の英才教育のもと、世界ナンバーワンのチームの一員になるまでの軌跡を、彼自身の言葉とともに追った。
フットサルのトッププレーヤーになるために生まれてきたような環境。
原田快選手は2004年大阪生まれ。父である原田健司さんも元フットサル日本代表選手で、現在は多くのFリーガーを輩出している指導者でもある。そうした恵まれた環境で育った彼は、物心ついたころから、つねにボールにふれる生活を送ってきたという。4歳のとき、健司さんが京都府木津川市でフットサルのクラブチーム「ガット2008」を立ち上げ、同時に「ガット・フットサル・スクール」を開校。家族で京都へ引っ越すと同時に、快選手も父が運営し、コーチを務めるチームへ加入。本格的にフットサルプレーヤーとしてのキャリアをスタートさせることとなった。
フットサル・エリートとしての道を歩み始めた原田快選手。9歳で2週間にわたるブラジル留学を経験すると、その後も10歳でスペイン留学、11 歳でスペインで開催されたMIC世界大会出場、12歳のときには日本選抜メンバーとしてドバイでの大会に出場するなど、海外での豊富なプレー経験を有する期待のホープとして、すでに世界から注目されるプレーヤーへとなりつつあった。
原田快「じつは小学6年生のとき、ガンバ大阪のセレクションを受けました。それまでフットサルしかやっていなくて、サッカーの練習をきちんとやったことはなかったのですが、それでも最終選考まで残りました。残念ながら最終選考で落ちてしまったのですが、それを機に自分はフットサルに専念しようと決めました。だからもしそこで合格していたら、また違う人生を送っていたかもしれないですよね」
快選手を支えた、父のサポートと母のアドバイスと兄弟たちの活躍。
先にも述べたように、まさにフットサルエリートを育成するための理想的な環境で幼少時代を過ごした原田快選手。父親が少年フットサルチーム「ガット2008」の指導者で元フットサル日本代表選手というのは先にも述べたが、父であると同時に所属チームのコーチでもある健司さんが、練習後やオフの日も自宅でトレーニングをサポートしてくれることも多く、スキル面での成長にも大きく貢献することとなったのはいうまでもない。また練習で判明した課題や試合での反省点について、練習場だけでなく家庭でも話をできることは、メンタル面でも助けとなり、彼にとって最高の環境だったと振り返る。しかもその指導方針は、もちろんときに厳しくはあるが決してスパルタというタイプの指導ではなく、子どもである快選手が楽しみながら練習できるよう、あの手この手で工夫してくれていたのだそうだ。
原田快「たとえば小学生の頃、家で『ゲームやりたい』とか『テレビを見たい』と言うたびに、父から『じゃあ一回ボール蹴ってこい』って言われるんです。しょうがないから外へ出てリフティングをしたりシュート練習をしたりして帰ってくる。それからでないと遊ばせてもらえませんでした。またポケモンカードにハマったときも『リフティング何回以上できたらこのカード買ってやる』みたいな感じで、ゲーム感覚で楽しくポジティブに練習できるようにしてくれていたんだと思います」
じつはもうひとつ、原田家が「スポーツ一家」と呼ばれる理由がある。原田快選手の母であるとも恵さんは、スポーツ選手の栄養管理に必要な基礎知識や目的別の食事指導、種目別のレシピ考案など、専門家としてアドバイスやサポートをおこなうスポーツ栄養コンディショニングアドバイザーでもあるのだ。健司さんの現役選手だった当時はもちろん、息子である快選手の食事面においても、これまでさまざまなアドバイスをおこない、日々の栄養管理や身体づくりに関してもサポートしてきたということだった。
原田快「母からは『こういう栄養素を摂りなさい』とか、やはり栄養バランスを考えて食事するようアドバイスしてくれますし、日本にいるときはそれを考えた食事を用意してくれていました。とくに魚を食べなさいとよく言われました。じつはぼく魚が苦手なんですよね。もちろんだからこそ言ってくれているということはわかっているんですけど(笑)」。
さらに、彼には弟がふたりいるのだが、なんといずれもプロチームの下部組織に所属するフットボーラーなのだ。次男で現在高校1年生の闘心(とうしん)くんは快選手が所属していたペスカドーラ町田のU18Bでフットサル選手として活躍、三男で中学2年生の爽潤(そうる)くんは東京ヴェルディのジュニアユースに所属するサッカー選手である。まさにスポーツ一家として順調に進んでいた原田家は、昨年の夏、さらなる大きな進化を迎えた。それが、快選手のFCバルセロナ入団だった。
スペインの大会での得点王&MVPから王者バルサとの契約へ。
きっかけは2018年にスペインのテネリフェ島で開催されたTenerife世界大会。この大会で彼が所属する「ガット2008 フットボールクラブ」はベスト4に進出。通算4試合で26点を叩き出して得点王となり、同時に大会MVPにも選ばれたのだった。当然のことながらスペインだけではなくヨーロッパ中に大きなインパクトを与え「Kokoro Harada」の名前が轟いたのだった。
原田快「『すごい日本人がいる』という噂がスペインのフットサル界で広まっているらしいという話を聞きました。それから最初は違うチームからオファーが届いたんです。そうしたら代理人の方から『バルサに行ってみる?』と話をもらって、チャンスがあるならと練習に参加させてもらったのがきっかけでした。こんな機会は誰にでもあることではないし、やっぱり憧れのチームでもあったから、すごく興奮しました」
しかしその直後のこと、コロナウイルスの世界的パンデミックにより、海外挑戦をいったんは断念せざるを得ない状況になってしまった。それでも中学を卒業するタイミングで、国内フットサルチームであるペスカドーラ町田からオファーが届く。彼は地元・京都府木津川市でチームを率いている父を残し、家族とともに東京へと拠点を移した。16歳にしてフットボーラーとなった原田快選手。通信制の高校に通いながら、ゲームにも出場した。初年度からいきなりU18東京都リーグで得点王の活躍を見せると、U18フットサル全国大会で優勝を果たし、翌年の17歳で早くもトップチームに昇格。さらにはU20日本代表にも飛び級で選ばれるなど、着実に成長を遂げていくのだった。
そしてコロナ禍が落ち着きを見せ始めた昨年4月、FCバルセロナの最終トレーニング参加を経て見事に合格。満を辞して、長年憧れていた正式入団を勝ち取ったのだった。これまで多くの大会でチームの優勝やMVP、得点王などのタイトルを獲得してきた彼が、フットサル人生の中でもっともうれしい出来事だったと話す。10代の日本人が、世界最高峰のリーグのトップチームであるバルサの一員になるという偉業を成し遂げたわけだから、それは当然のことだろう。しかしその瞬間でさえ、彼にとってはあくまで通過点でしかない。なぜなら「世界一のフットサルプレーヤーになる」という、より大きな目標が彼にはあるからだ。
課題を感じながらも、手応えを掴めたバルセロナでの初練習。
スペインにFCバルセロナに合流した彼が最初に痛感した課題は、やはりフィジカルの差だったという。とにかく当たりが激しく、みんな身体が強い。これまでもペスカドーラ町田や日本代表の試合でも外国人選手とプレーした経験はあったが、やはり世界最高峰のリーガエスパニョーラのそれもトップクラブであるFCバルセロナに集まってくる選手たちともなれば、想像以上にレベルが高いと感じたという。もちろんパススキルをはじめ個人技も上手い。これはとんでもないところに来てしまったなと実感した。それでも彼に臆するところはまるでなかった。なぜなら彼が得意とするオフェンスの能力に関しては充分通用するという手応えを、最初から感じ取ることができたからだ。それに関してはコーチからも太鼓判を押されていた。逆にいえば彼にとっての課題は、ディフェンス力とそれに必要となる当たり負けしない強いフィジカル。それだけだった。
原田快「現在はフィジカル強化に向けたトレーニングを毎日取り組んでいます。チームのフィジカルトレーナーに組んでもらったメニューにのっとって、ベンチプレスやスクワットという基礎的なものから始めて、徐々にハードなメニューも加えていきます。メニューは選手によって異なりますが、ぼくはとにかく体重を増やすことを優先しながらスピードもアップできるようコーチが考えてくれたメニューをこなしています。また、これもコーチの指示で筋トレを練習前にやる選手と練習後に行う選手がいるのですが、ぼくは練習の1時間前にやるよう言われているので、その後の練習がけっこうキツイですね(笑)」
フィジカルを強化し、課題であるディフェンスをクリアすれば、得意のオフェンススキルがより活かせるだろう。1対1のスキルにさらに磨きをかけ、オフェンスのバリエーションをもっと増やすことができれば、F.C.バルセロナでも充分やっていける。14歳で初めて練習参加したときから感じていた手応えは、正式にチームに合流してからもそのままだった。彼のなかで自信はすでに確信に変わっていた。