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Vol.41
小さき勇者の、 大いなる飛躍。
身長172cmの天才ポイントガードが夢見る、自分自身と日本バスケ界がめざすべき次なるステージ。

河村勇輝
バスケットボールプレーヤー/東海大学男子バスケットボール部

小さき勇者の、大いなる飛躍。前編
2021/12/20

東海大学バスケットボール部・シーガルスのポイントガードとして2年生ながらレギュラーで活躍する河村勇輝選手。先日行われた全日本大学バスケットボール選手権大会、いわゆる「インカレ2021」では、チームを準優勝に導き、自身も大会アシスト王を獲得。将来を嘱望されるバスケ界の若きホープである。
高校時代から名を馳せ、プロでも通用するといわれていた彼が、なぜ東海大学への進学を選んだのか。バスケットボールとの出会いや、特別指定選手として参加したBリーグでの経験など、河村選手のバスケット・フィロソフィーに迫る。

バスケを楽しむためにプレーを磨く。その努力がまた楽しい。

バスケットを始めたのはわずか6歳。バスケットボール選手だった父の影響が大きかった。当時すでに彼の家にはリングがあり、河村少年にとってバスケットボールはもっとも身近な遊びのひとつだったのだ。小学2年生のときに地元のミニバスケットボールクラブに所属。彼の地元である山口県では有名なチームで良い指導者と良い環境で知られる人気クラブだった。ここから彼の本格的なバスケットボールライフが幕を開ける。チームに加入してわずか1週間後、ルールもほとんどわからないままに出場した最初のゲームでプレーの激しさ、戦いのおもしろさに魅了され、バスケットボールの虜になった。それから12年。その瞬間に彼が抱いたバスケットへのパッションはいまも変わっていない。ケガがあり、プレッシャーがあった。練習がきついと感じたことや、思い通りのプレーができない時期など、これまでに何度か苦難の時はあった。しかしバスケットをやめたいと思ったこと、バスケットそのものを嫌いになったことは、一度たりともなかったという。

河村勇輝の名が全国に知れ渡ったのは高校生のときだった。福岡第一高校に進んだ彼は、みるみる頭角を現し、全国大会でタイトルを4つ獲得。ウィンターカップでは2連覇に多大なる貢献してベストファイブにも選出された。また高校から大学へと進学する間のオフシーズンに、プロリーグであるBリーグに高校生ながら特別指定選手として加入すると、18歳8ヶ月23日という当時のBリーグ最年少出場記録と最年少得点記録を更新した。まさに破竹の勢いだった。その彼が、次なる進路として選んだのが東海大学シーガルスだったのだ。

河村選手「Bリーグの特別指定選手としてプロの選手と実際に対峙してみて、いまの身体では自分の将来の夢であるBリーグの舞台で活躍することや日本代表のポイントガードになることはやはり難しいということを肌で感じました。もちろんバスケットIQの面でもぜんぜん足りていない。その経験から、数ある大学のなかでもバスケット環境はもちろんトレーニング環境も素晴らしく、さらには陸川先生のもとでバスケットを教わることでバスケットIQだけでなく人間力も鍛えられるということで、自分には東海大学しかないと感じました」

高校時代は自分自身のフィーリングだけでバスケットをやっていても活躍できたと語る河村選手。Bリーグでの経験や、東海大学での練習で感じたのは、やはり圧倒的なフィジカルの差だったという。もともと172cmとバスケットプレーヤーとしては小柄な彼だが、それでも高校生レベルまでなら持ち前のスピードと卓越したテクニックで翻弄できた。しかし、大学やプロになると個々の身体の強さがチームの強さに直結することを体感させられた。自分のバスケットとの向き合いかたを見つめ直すきっかけになった。とりわけBリーグ参戦時に憧れの選手でもある冨樫勇樹選手と対峙し、彼のプレーをダイレクトに体感できたことは大きかった。冨樫勇樹選手も167cmと小柄な選手であり、ポジションも同じポイントガード。ジャンプの高さ、ムーブのスピード、ひとつひとつのプレーのクレバーさ、あらゆる観点から自分がめざすべきプレーがそこにあった。そしてなにより、それらのプレーのクオリティを支えているのが、小さくても強い肉体によるバランスだった。ユウキという同じ名を持つ同じポジションのスタープレーヤーとの直接対決を通じて、自身のバスケットの質を高めるためのヒントを掴んだ。

どんな状況でもベストを尽くすことから逃げてはいけない。

もうひとつ自分のバスケットを見つめ直すきっかけとなった出来事があった。コロナ禍だ。大学入学とほぼ同時にコロナウイルス感染拡大の影響で大学は自粛期間に入り、大学は休校。大会や練習試合はもちろん、チームが集まっての練習さえも禁じられた。3月の終わりにチームに参加してすぐに自粛となり、そこから8月くらいまで5か月ほど実家に帰ることになってしまった。インカレが開催されるかどうかもわからなければ、そもそもリーグ戦が実施されるかもわからない。そういう先行き不透明な状況で、モチベーションを保たなければならないという状況は、伸び盛りである10代の若きアスリートにとっては辛い日々だったに違いない。

河村選手「東海大学のバスケットというのは1年間かけてじっくりとチームを完成形へと作り上げる。いわば芸術品です。だからこそ戦術、連携、個人のスキルなど、あらゆるクオリティが高いことで知られていました。そこへいきなりの自粛。ましてや僕は1年生で加入したばかりなわけですから、ポイントガードとして戦術を理解してコートの中でチームや選手を操ることに関してはかなりネガティブな状況でした」

しかし、入学直後からいきなりの自粛生活によってバスケットができない苦しい状況に追い込まれたなかでも、彼は自分を見失うことなくやるべきことに集中していた。自身のプレーや憧れの選手の映像をチェックして重点的にバスケットIQを磨いた。戦術面や連携などに関する話を聞くため、東海大学の先輩ポイントガードのもとへ通いつめた。そして自身の課題だとあげていたフィジカル面でのトレーニングにも向き合った。東海大学は設備やトレーニングメソッドなどを含めたフィジカルトレーニングの質も大学トップクラスだ。大学入学以降の2年間のトレーニング、とくに器具や自重を使った体幹トレーニングのおかげで河村選手の身体は自身でも実感できるほど強くなったと話す。

河村選手「とくに強化したのがお尻ですね。お尻は上半身と下半身のつなぎ目で身体のコアになる箇所でもあるため、とても大事な部分なんです。さまざまなトレーナーとコミュニケーションするなかで、お尻の筋力がないことが僕のフィジカルにおけるひとつの課題だったこともあり、東海大学に来てからはお尻のトレーニングをしっかりやりました。じつはお尻の筋肉とひとくちに言っても細かい筋肉がいろいろあるので、それらひとつひとつについて強化するようにトレーニングしたんですね。おかげでケガがずいぶんと減ったと思います」

コロナ禍における自粛によって数か月にもわたって思うように練習ができない逆境を、彼はポジティブに活用していた。Bリーグでの経験で得た自らのフィジカルへの課題に取り組みつつ、ケガをしない身体づくり、さらには高校から大学に進むなかで酷使してきた肉体をメンテナンスする期間として位置づけ、自分の身体ととことん向き合った。バスケットIQに関してさまざまな学びを得ることにつながり、精神的にリセットする時間にもできた。「状況はネガティブだったけど、僕自身はポジティブに捉えていた」と語る河村選手。座右の銘である「継続は力なり」を体現するかのように、彼はピンチをチャンスに変えるべく黙々と自らに課題を課し、さらなる飛躍のための準備を怠ることなく続けていたのだった。