岡田優輝
ラグビープレーヤー/トヨタヴェルブリッツ
ラグビー選手の岡田優輝は、幼稚園で楕円球と出会ってから幼馴染と4人で切磋琢磨。そのいずれもがジャパンラグビーリーグワンで活躍している。トヨタヴェルブリッツでプレーする岡田のキャリアは、さながら少年漫画の登場人物のように興味をひく。
仲間と手紙とスパイクと。
国際化が進む日本ラグビー界にあって、26歳の岡田優輝が示すものは何か。
日本人選手としての矜持だろうか。本人の思いはどうか。
「それはあまり、意識はしないです。ただ、色んなチームに外国人選手が多くいるなか、自分が日本人のなかでもチームにいい影響を与えられる存在になれたらな、とは思います」
在籍するトヨタヴェルブリッツは、今年発足したジャパンラグビーリーグワンで最上位のディビジョン1に加盟する。リーグワンでは前身のトップリーグ時代より、試合ごとに課される外国人枠が柔軟になっている。おのずと、骨格や経験値に長けた海外出身者を多く出すクラブは増えた。近年、常に上位4強に絡むトヨタヴェルブリッツも、その例外ではない。
岡田が今回の取材に応じたのは2月中旬。直近にあった第5節までの間、実施された3試合すべてに先発していた。いずれの折も、スクラムハーフを除くバックスのスターターにあって唯一の国内出身選手となっていた。
自身はルーツの差異を「意識しない」ようだが、他者に似ていない動きで存在感を出したいのは確かだ。
防御の死角で球をもらったり、パスを受け取る瞬間に走るコースを変えたり。守っては、持ち場と逆のエリアに飛んできたキックの軌道も首尾よくカバーする。ヘッドコーチのサイモン・クロンからも、このように評価される。
「良い働きをしている。アスリートとして大きな能力を持っている。ビッグモーメントでいいプレーをしてくれる印象があり、頼りがいがある。常に足を止めず、謙虚に取り組んでくれます」
公式で「181センチ、91キロ」。国内選手にあっては大柄も、サイズや身体能力のみに頼らぬ渋い働きで爪痕を残すのだ。
「自分としては、あまり派手なプレーはできない。ボールを持ってからの力強いランニング、ディフェンスと、相手が嫌がるプレーを心掛けています。アピールしたい点は仕事量です。チームが(盛り)上がれるような、地味でもチームにいい影響を与えられるプレーを、泥臭くやっていきたいです」
センター、ウイングと、バックスにおける複数の位置で働けるのも強みだ。チームに1人は欲しいと言われうる名黒子は、さながら少年漫画のキャラクターの生き方で道を切り開いてきた。
人生初のスカウト
「母が、赤白の段柄が好きで…」
競技を始めるきっかけを問われれば、最初に手にしたジャージィのデザインについて語る。通っていた兵庫のいずみ幼稚園には、体操をはじめとした運動のクラブがあった。岡田はヴィヴィッドな「赤と白」を、勧められるがままに着ることとなった。
「ラグビーボールを持って走るのが楽しかったという記憶は残っている。それが、ずっと続いているのかなと思います。物心のついた時からラグビーをしていた。はまっていくというよりも、当たり前のようにラグビーをやっていた感じです」
いずみ幼稚園がラグビーを名物とする裏には、垂優(たれ・すぐる)氏の存在がある。
姉妹校の白ゆり幼稚園の園長でもあった通称「垂先生」は、伊丹ラグビースクールの創設者でもある。
白ゆり幼稚園では、男の子たちを集めては「煙草を鼻から入れて耳から出す手品」を披露していた。種を見破れない子はラグビーをするという約束を事前に取り付け、幾多の活発な男子を楕円球のとりこにしてきたわけだ。
ふたつの幼稚園で複数のチームを作り、交流戦も開いた。岡田が出ていた頃のその大会には、後のトップ選手が勢ぞろいしていたのだ。
本人の記憶によれば、トーナメントの決勝へ進んだ岡田のチームには現コベルコ神戸スティーラーズの前田剛がいた。ファイナルでぶつかった白ゆり幼稚園のチームのひとつには、横浜キヤノンイーグルスの梶村祐介、NTTコミュニケーションズシャイニングアークス浦安東京ベイの喜連航平が並んでいた。
やがて4人は伊丹のスクールに入り、小中学生の間は同じチームで楕円球を追った。
「リーグワンで活躍している選手が同期にいて、それが幼稚園から続いているのは感慨深いです。梶村も、前田も、喜連もラグビーが大好きでした。土日にあるラグビースクールの練習が終わってからも、公園に集まってラグビーをして遊んだり、サインプレーを考えたり。そうすることが楽しくて」
岡田が幼稚園を卒業するころ、岡田の家族が垂氏から手紙をもらっていた。
後になって母に知らされたその中身には、まだランドセルを背負う前のアスリートへの敬意がにじんでいた。
「岡田君なら活躍する選手になる。是非、ラグビースクールに入ってくれませんか」
いわば、人生初のスカウトである。いまでも大事に持っているというその手紙が、その後の競技人生を切り開いていくのである。人との縁は尊い。
縁といえば、小学校時代に「スパイク」のつながりを作った。
というのも当時から旧神戸製鋼のファンだった岡田は、某日、普段の練習もおこなう同部の専用グラウンドでのファンフェスタに参加。そこでは当時プレーしていた今村友基氏の使用済みスパイクを購入し、中学生になって靴のサイズが合うようになるとそれを履いて走り回った。
後に20歳以下日本代表に呼ばれると、コーチ陣に今村氏がいた。自分が今村氏のスパイクを入手した旨を伝えると、嬉しそうにしてくれたのだ。
話を少年時代に戻せば、中学卒業時には大阪桐蔭高校との縁に巡り合えた。
「聖地」と言われる大阪の花園ラグビー場に憧れていた岡田は、大阪のチームからラブコールを受けた事にとにかく喜んだ。その頃はいまとやや異なり、「スピードを活かしたプレー」を長所に掲げていて、3年時にはチーム史上初の4強入りを果たした。
ちなみに伊丹時代の仲間は、梶村と前田が地元の報徳学園高校に、喜連と岡田は大阪桐蔭高校に進学。高校3年時には、そのなかのひとりである梶村が日本代表の練習生となった。岡田は「素直に僕が嬉しかったですし、火をつけさせてもらいました」と述懐する。
いずれも大学ラグビーシーンを経て、際立つ存在となってゆくのである。
写真提供:トヨタヴェルブリッツ