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Vol.48
人生のセンターコートへ。
弱さを優しさに、優しさを強さに変えてきた、18年の「日比野の日々」。

日比野菜緒
プロテニスプレーヤー

人生のセンターコートへ。 前編
2022/05/10

テニスを始めて18年、プロに転向して来年には10年を迎えようとしている日比野菜緒選手。ベテランと呼ばれる年代にも差し掛かり、最大の目標だった東京2020大会への出場を経たいま、彼女は新たなステージへと歩み出そうとしている。

15歳で海外へのテニス留学を経験し、18歳でプロデビューしてすぐツアー初優勝。華々しい経歴とめざましい快進撃とは裏腹に、心のなかはつねに迷いや不安が交錯していた。あのときテニスをやめていたら現在の成功はなかった、というタイミングがなんどもあった。しかし彼女には、いつだってそばに支えてくれる人たちがいた。励ましてくれる言葉があった。前編は、プロテニスプレーヤー・日比野菜緒誕生秘話であり、シャラポワに憧れた夢見る少女が、シャラポワと戦う夢を叶えたその日までの物語である。

テニスと出会って、人生にめぐり逢った。

テニスを始めたのは10歳のとき。塾の教師で教育熱心だった母・ゆかりさんの勧めで、当時住んでいた愛知県の地元クラブに通い始めた。兄が始めたのをきっかけに、なんとなく彼女も一緒に習い始めたという経緯もあってか、当初はなんども「やめたい」と弱音を吐いていたと、当時の自分自身を振り返る。

そんな彼女がなんとかテニスを続けられたのは、習熟度に応じてクラスがランクアップしていくシステムが彼女自身の性格に合っていたおかげだと笑う。誰よりも負けず嫌いだった彼女にとって、上位クラスに上がっていくことがいいモチベーションになった。その甲斐あって「育成クラス」へと昇格。大会出場選手にも選ばれるようになり、将来を嘱望されるプレーヤーとしてメキメキと頭角を現していった。

小学生時代の日比野選手が憧れていたのは、当時の女子テニス世界ランキング1位で「妖精」とも呼ばれたマリア・シャラポワ。部屋にシャラポワのポスターを貼り、彼女のプレーを真似たりもした。シャラポワが日本で試合をした際には会場へも足を運び、彼女の一挙手一投足をその眼に刻みつけた。いつか自分も彼女のように世界で戦えるトップテニスプレーヤーになりたい。それには、まずは全国大会で活躍し、それから世界大会に出よう。そしてウィンブルドンジュニアに出てみたい。いままでなんとなくテニスが好きで練習していただけだった彼女に、初めて追いかけるべきひとつの夢ができた。それからほどなくして転機は訪れる。15歳のときだった。

日比野「すでに国内の大会では結果が出ていたので、じゃあ次はいよいよ世界をめざそうということになりました。そのタイミングでちょうどたまたま当時クラブで指導してもらっていたコーチが、オーストラリアのゴールドコーストに行くことになったので『じゃあ私もついて行きます!』とアピールしました。母親も「行ってきなさい」と背中を押してくれました。たぶん母も私も見ている景色が同じだったんだと思います。世界に行くにはこれが必要だ、ということがふたりともわかっていた。だから15歳で海外へ行くことへの不安は一切ありませんでした」

異文化にふれて、自分らしさを知った。

ゴールドコーストでの滞在は約一年半に及んだ。現地ヘッドコーチと、一緒に行った日本人コーチ、それぞれにみっちりと世界で戦うためのテニスを叩き込まれるハードな日々。朝から晩までテニス漬けの毎日を送っていた。そのいっぽうでオフの日には、ホストファミリーや友人たちと一緒にジェットスキーを楽しんだり、サイクリングをしたり、食事に出かけたりもした。当時のメンバーには同年代の日本人選手も多く、いまでも付き合いのある生涯の友もできた。

海外で練習を続けるなかで印象深いアドバイスがあった。それは「たとえ自分に非があった場合でも、必ず言い訳をしなさい」というものだった。日本ではむしろ言い訳はご法度。自らの非を積極的に認める潔さが美徳だとされてきた。最初はとても混乱した。しかしムリやり言い訳を考えているうちに、自分のミスや過ちを具体的かつ論理的に考えられるようになった。言い訳をするためには、なぜ?を考える必要があるからだ。潔さは逆に、思考停止につながる場合もあるのだ。15歳という年齢で海外に出たことで自分の常識とは違う価値観の存在を学べたことは、ふつうの日本人高校生にはおよそできないユニークで貴重な経験であり、その後のプロ生活にとても役に立ったと彼女は話す。

日比野「海外ではジュニアの選手でもみんな自己主張が強くて、私よりずっと年下の選手でも「私はこう思う」「私はこうしたい」と自らの考えを強く主張してくるんです。やっぱり最初は戸惑いましたね。でも、そうした日本との違いを肌で感じることができたことは、海外選手の思考パターンや世界で戦うためのメンタルを鍛えるという点で貴重な財産になっていますし、その後のテニス人生において、とくに海外で転戦するトップアスリートとして活躍していくうえで、とてもプラスになっています」

帰国と挫折。決意と覚醒。

2011年、ゴールドコーストでのテニス留学を終えて日本に戻ってきた。じつはそのとき、彼女は密かにプロのテニスプレーヤーになる道を諦め、アメリカの大学への進学することを考えていた。というのも、日比野選手を含め「94年組」と呼ばれる世代は10人以上の有望選手がひしめき合い、互いにしのぎを削っていたいわば黄金世代。他の選手たちが海外で着実に戦績を残していくなか、日比野選手は思うような結果を出せず苦しんでいた時期だった。彼女たちの背中を追いかけ食らいついてきた日比野選手だったが、いつしか彼女らのことを遠い存在だと感じ始め、諦めの気持ちが芽生えている自分に気づいた。彼女たちは間違いなくプロになり、そこで世界を相手に成績を残していくだろう。でも私にはムリだ。それなら私はプロの道を諦めてアメリカの大学に進もう。そう、心に決めていたのだった。それは冷静な彼女らしい自己分析であると同時に、挫折した自分を認めたくないという弱さだったのかもしれない。本当は自分の決心に自信を持てずに揺れていた。

そんな彼女の心を動かしたのは、やはり母のゆかりさんだった。「あなた本当はまだテニスをやりたいんじゃないの?」。そう問われた。ハッとした。

日比野「母に『とにかく3年、本気でやってみなさい』と言われました。3年後、みんなが大学3年になって就職活動をする年まではテニスをやってみて、ダメだったらそこで諦めればいい。だからいったん日本に帰ってきて、もう一回だけ挑戦してみなさい、と。そのひとことでまた背中を押されて、それでもういちど日本でテニスを続けることにしたんです。でも同時に『3年やってダメだったら、今度はあなたが続けたくても諦めてもらうから』とも言われました(笑)」

もうひとり、彼女の心を動かした人物がいた。日本女子テニス界のレジェンドである伊達公子さんだった。といっても伊達さんが彼女に直接アドバイスしたわけではない。当時の伊達さんは11年のブランクを経て37歳での現役復帰を果たしたばかりだった。ある記者会見で「いまの若手は国内でぬるま湯に浸かっている」「海外でも日本人同士だけで練習して世界で勝つという意識が足りない」と発言しているのを見た。日比野選手にとって、その言葉は、天啓のように思えた。当時の彼女自身が感じていたことでもあり、心の奥深くに突き刺さる的確な指摘だったからだ。そして瞬時に「母がふだんから私に言っていることと同じだ」ということも理解できた。3年以内に世界で戦える選手になり、このぬるま湯から抜け出してみせる。伊達さんの言葉が、彼女の決意をよりいっそう強いものにしていった。

ここから、日比野菜緒選手の快進撃が始まる。ジュニアを卒業した2013年4月から18歳でついに彼女はプロテニスプレーヤーとなった。同世代の選手たちが主催者推薦やワイルドカードを得て大きな大会に出ているなか、彼女にはそうした後ろ盾が一切なかった。それでもいつか彼女たちに追いつき追い抜いてやるという思いで勝利を重ねていった。10歳でテニスを始めたころ、クラスがランクアップすることがモチベーションだったのと同じように、負けず嫌いな彼女のそうした強い気持ちも後押ししてくれた。やがて彼女はITF※1の国内ツアー大会で次々と勝利を重ねていく。

日比野「グランドスラムの予選に出る資格を得るためには、ランキングが200位前半まで上がらないといけないのですが、あともう一歩で届かないという時期が一年くらい続きました。このペースでは3年以内に結果を出すという約束に間に合わないかもしれない。またもやテニスをやめようかと考えている自分がいました。でもヘッドコーチの竹内映二さんがナショナルチームをやめてまで私につきっきりで指導してくれて、それでもういちど気持ちを立て直すことができました。あともうひとつ大事なことは、ジュニアからプロに変わるときに、やはり身体づくりがいちばん大事だというアドバイスを受けて、専属トレーナーをつけて遠征を回るようにしたことです。最初の2、3年はトレーニングしながら試合に出るのはとてもキツかったんですけど、だんだん慣れることができました。このころには練習環境や身体づくりへの取り組みなど、ようやくプロとしての自覚が出てきたんだと思います」

20歳となり、大人のプロテニスプレイヤーとなった日比野菜緒選手は、ついに覚醒する。タシュケントオープンでWTA(※2女子テニス協会)ツアー初優勝を飾るとランキングも100位以内へと上昇。その年の終わりには66位にまであっという間に駆け上った。2015年は、まさに飛躍の年となった。

母との約束。レジェンドである伊達さんの言葉。そして恩師である竹内映二コーチとの練習。もう大会前夜のパーティーで同世代の日本人選手とキャッキャとはしゃいでいた彼女の姿はなかった。自分はもうジュニアではない。大人の、独立したプロテニスプレーヤーなのだ。勝つために私はここにいる。そうした自覚が練習態度や試合に臨む意識、選手としての振る舞いに変化をもたらし、それが彼女のなかで眠っていた才能を引き出す結果となった。ランキングはみるみるうちに上がっていた。彼女はもう立ち止まることはなかった。私はもっと上に行く。いちばん上まで登って、まだ誰も見ていない景色を見るんだ。ついこないだまで「テニスをやめたい」と弱音を吐いていた女の子と同じ人物だとはとても思えなかった。

夢を叶えた日。夢を見続ける日々。

2016年はじめ、彼女の大きな夢が叶った。初めてのグランドスラム大会となる全豪オープンに出場。しかも初戦の相手は、彼女が子どものころからの憧れだったマリア・シャラポワだと発表された。当然、舞台はセンターコート。観客も多く、注目も高い試合になることはわかっていた。

日比野「初めて出場するグランドスラムで、憧れの選手と戦える。正直なところプロとしては失格なんですけど、あまりのうれしさで浮き足立っていましたね。だってもう運命的というか漫画のような展開で、ただただうれしかったんですよ。しかも自分なりにはいいゲームができた。もちろん実力差はありましたけど、デビュー戦にしてはいい内容の試合ができたという手応えもあって、それもうれしかったですね」

じつはこの試合の後日談として、こんなエピソードがある。試合後のシャラポワ選手の記者会見で、日本人記者が「対戦相手だった日比野選手はあなたに憧れていて、部屋にポスターを飾っているそうです」と伝えたのだ。するとシャラポワ選手は「彼女もこの舞台に立つプロの選手になったのだから、いますぐ自分のポスターに張り替えるべきね」と語ったのだった。それから6年が経った。日比野選手に、あのあと実家の部屋のポスターはシャラポワのものから自分のものに張り替えたのか尋ねてみた。すると彼女はニッコリ笑ってこう答えた。「張り替えてないです。いまもまだシャラポワのポスターのままです」。彼女はまだ夢の途上にある。夢見る少女が部屋に貼ったシャラポワのポスターが貼り替えられる日、それは彼女自身がテニス選手としてなにかを成し遂げたと実感できたときに訪れるのかもしれない。

※1 ITF=国際テニス連盟(International Tennis Federation)。プロテニスだけではなく、ジュニアや車いすテニスなど世界のテニス全体を統括する組織。男子のデビス・カップや女子のビリー・ジーン・キング・カップなどの国別対抗戦の運営も行なっている。

※2 WTA=女子プロテニス協会(Women’s Tennis Asociation)。女子プロテニスを統括する組織。グランドスラム(全豪オープン・全仏オープン・ウィンブルドン・全米オープン)をはじめとするプロテニスのツアーの運営やランキングの発表などを行っている。