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vol.8
トライアスロンが教えてくれたこと
ゴールのその先にあるもの

流通経済大学トライアスロン部監督
田山 寛豪

トライアスロンが教えてくれたこと 前編
2019/06/28

2019年6月某日。茨城県龍ケ崎市の陸上競技場トラックで、黙々と学生と並走する一人のオリンピアンがいた。流通経済大学のトライアスロン競技部監督の田山寛豪である。日焼けした肌に、絞られて均整のとれた筋肉。本人曰く「現役の頃の僕を知っている人からは、小さくなったと言われるんです(笑)」だそうだが、素人目には「まだまだ学生たちには負けない」という現役さながらのオーラが漂っている。

高校時代の恩師の一言がトライアスリートになるきっかけに

田山がトライアスリートとしての道を歩み始めたのは1998年。当時所属していた高校の駅伝部の顧問から「お前は水泳もできて、走れる。自転車ができればオリンピックに行けるぞ」と言われたことがきっかけである。ちょうど、2000年のオリンピックシドニー大会からトライアスロンが正式種目となり、注目度が高まっていたことも背中を押した。「たしかに、水泳もマラソンもトップではないけれど、3つの種目を競うならトップを目指せるかもしれない」。そう感じた田山は、トライアスロンの世界に本格的に足を踏み入れ、メキメキと頭角を現していった。

大学に入るとタイムは順調に伸び、オリンピック出場経験もある日本のトップ選手と肩を並べるようになる。さらに大学2年次には日本代表としてアジア選手権大会(ジュニアカテゴリー)に出場、大学卒業後1年目に出場した世界選手権では9位に入るなど、強豪ひしめく世界と互角に渡り合える選手として日本のトップに立つほどに成長する。

「自分のことを一言でいうと負けず嫌い。誰かがこんな練習を取り入れた、あのライバル選手はこんなメニューを取り入れているなど、周囲の情報が耳に入ってくると、自分はそれ以上のことをやってやろうと。極端ですが、大会で勝てるのであれば、3日間食事をするなといわれたら、食べなくてもいいと思うくらい勝負にこだわっていました。よく他の選手には田山はストイックと言われたのですが、自分ではまったくそんなつもりはなく、ただ勝ちたいがためにやっていたことなんですよね」

そしてひとつの大きな夢を実現することになる。2004年のオリンピックアテネ大会への出場だ。「昔テレビでオリンピックを見ていて、選手はどういう気持ちなんだろうと思っていました。その憧れのスタートラインに立って空を見上げたときに、涙が出るくらい幸せを噛み締め、「夢を実現する」とはこういうことなんだと感じていました」と振り返る。

順風満帆なトライアスリート人生の中で訪れた転機

トライアスロンは、ショートからロングまで様々なディスタンスがあるが、基本はスイム、バイク、ランの3種目をひとりで行う競技だ。鉄人レースとも言われるほど過酷で孤独なスポーツではあるが、厳しい戦いに打ち勝ってこそ輝かしい舞台に立てる。その栄光を手にした田山は、初出場の2004年オリンピックアテネ大会で13位に入り、次回北京大会ではメダルが期待されるほど、名実ともに世界のトップ選手の仲間入りを果たした。しかし、絶頂期を迎えようとしている田山に大きな転機が訪れる。

「自分は水泳でも陸上でも、表彰台に上がる選手を見る側の人間でしたが、オリンピックに出場したことで立場がガラリと変わりました。周囲が『田山は凄い!』と、ちやほやしてくれるんです。最初は謙虚な気持ちでいなければいけないと自制心を働かせていたのですが、その状況に慣れてくると麻痺してくるんですよね。自分は日本のトップ選手だから掃除も挨拶もしなくても許されるとか、練習で調子がいいときはすごく上機嫌なのですが、悪いときは不機嫌になってムスッとしたり。大会で結果が出なかったときは監督と言い争ったりもして…」世界が自分中心に回っているかのような錯覚に陥り、自分にとって都合のいい人しか周りにいない、まさに裸の王様のような状態だったという。そんな田山の目を覚ましてくれたのが、当時所属していた実業団の監督だった。

「あるとき選手全員が参加するミーティングで、全員の前で怒られたんです。最初は、話の途中で出て行ってやろうくらいの気持ちだったのですが、聞いているうちにこんなに自分のことを怒ってくれる人はいないと思い始めて、自分の普段の行動がいかに情けなく、恥ずかしいものだったかに気づかされました」。監督に怒られてから自分自身を見つめ直したことで、世界ランクトップの選手は常に笑顔でいる、どんな時でも気持ちよく挨拶をしているなど、今の自分と比較し“足りないもの”を見つけることができたという。

「トライアスロンで世界のトップに立つには、早いだけではダメだ。強い人間にならなければ」。その気づきが、田山を安定した成績に導きはじめる。

うまくいかないときが、成長のチャンス

その後、オリンピック3回連続出場、日本人初のワールドカップ優勝、日本トライアスロン選手権11回優勝、日本のトライアスロン史に名を刻む輝かしい活躍を続けた田山だが、一番印象に残ったレースを聞くと意外な答えが返ってきた。「どのレースも印象深いものばかりですが、特に思い出に残っているのは2015年の日本トライアスロン選手権です。この大会ではバイクで落車してしまい、最終的には5位という結果に終わりました。心の中ではすごく悔しかったのですが、フィニッシュするときは絶対笑顔でゴールしようと決めていて。ライバルの細田選手から後で聞いた話なのですが、僕が笑顔でフィニッシュしているのを見て、『田山さん、絶対に次のリオに来る』と思ったそうです」

アテネでもてはやされ、指導者に天狗になった鼻をへし折られ、自分自身を見つめ直す。そんな大きな経験をしたからこそ手に入れた強さ。そして『田山はただ速い選手ではなく強い選手』ということを、周囲にも証明できた大会だったのかもしれない。

「選手ってやっぱりたくさんの経験をしなければ強くなれないんです。私の場合は日本のトップとしてやり続けてきましたが、うれしいことの方が多いかというと、実はその逆で、考えさせられる時間がとても多かったんです。悩んでいる時間、怪我をして練習ができないとき、タイムが伸びないとき、目の前に壁が立ちふさがったときにもがいた経験が、後々の自分の支えになったと思うんです」

度重なる怪我にも悩まされ、現役最後の10年間は「痛みがまったくない状態でレースに出たことはなかった」そうだが、それでも第一線で結果を残し続けてこられたのは、トライアスロンを通じて人間的な強さを鍛えることができたからだと感じている。現役時代に出会った指導者、ライバルたち、応援してくれる人々、練習環境をサポートしてくれる人々、その出会いすべてが田山にとってかけがえのない財産となっている。そして今、自身は指導者という新たなステージに立ち、その豊富な経験を伝えるべく後進の指導にあたっている。

田山 寛豪
オリンピック4大会連続出場、日本人初のワールドカップ優勝、日本トライアスロン選手権では11回の優勝など、数々の輝かしい記録を打ち立て、日本のトライアスロン界を長きにわたって牽引し続ける。2017年の日本トライアスロン選手権優勝を最後に、惜しまれつつも引退。現在は、母校である茨城県の流通経済大学で、トライアスロン部の監督としてトップ選手の育成に励んでいる。